里奈は、小学校時代からの友達だ。いつも一緒に遊び、勉強もした。
知り合って程なく、里奈はテニススクールに通い始めた。真っ白かった肌が少しずつ焼け始めたのをもったいないとも思ったが、それが里奈の魅力を損なうことはなかった。
そんな里奈に憧れて、同じテニス部に入部した。万年補欠の美鶴を、エースの里奈はいつも応援してくれた。
全国大会にまで出場した里奈を、美鶴は誇りにすら思っていた。妬んだことなどなかった。
そういう仲だった。
「誰?」
呆然としたまま、思った言葉が口から出た。美鶴の言葉に澤村は一瞬ためらったが、ゆっくりと口を開いた。
「…… 田代」
え? 田代? 田代って…… ?
田代って……
「田代って…… 里奈?」
小さく頷いてもう一度詫びの言葉を口にし、澤村は背を向けて去った。震える手で携帯を取り出し、里奈へ電話した。
「ごめんなさい」
その言葉を最後に、美鶴の記憶は途絶えている。
その後、里奈とどんな言葉を交わしたのか、まったく覚えていない。何も言わずに電話を切ってしまったのかもしれない。
里奈と澤村くんが……。
まったく知らなかった。
フられた事にもショックだったが、里奈との関係を知らなかったことにも衝撃を受けた。
美鶴は、長い間一人だった。正確には一人ではなかったが、小さい頃の友達と言えば、隣の聡と母の職場の同僚だった。
開店前の店の中で若い女性に相手をしてもらい、開店すると、奥の部屋でひとり遊びをするのが常だった。幼稚園へも保育園へも行かなかった。
今思えば、行かなかったのではなく、行けなかったのだ。そんな金銭的余裕はなかった。
母は十代の頃に家を飛び出し、それっきり戻ったことはない。美鶴は祖父母という存在を知らない。
小学校にあがるまで、同年代との集団生活というものを知らなかった。
最初は戸惑った。同級生とどう接してよいのかわからなかった。周囲も、美鶴とは距離を置いた。
彼らや彼女らには、すでに入学前からの友達がいた。別に、美鶴と親しくなる必要はなかった。美鶴の素性を知った同級生の親達が、意図的に自分の子供と美鶴を離していたのかもしれない。
クラスが別になった聡は、やがて空手を習い出した。放課後の時間が合わなくなった。美鶴は一層孤立した。
一人でいることに慣れていた美鶴は、それを寂しいとは思わなかった。ただ、集団の中で一人になることに、戸惑いは感じていた。
「一人で帰るの?」
帰り道に後ろから声をかけてきた少女は、真っ白な肌に透き通るような瞳の持ち主だった。
「一緒に帰ろう」
それが、田代里奈だった。
あの時なぜ里奈が声をかけてきたのか、美鶴はいまだに知らない。きっと、友達もなく一人で行動する美鶴を、哀れに思っていたのだろう。だがその時の美鶴は『哀れむ』という感情の存在を知らなかった。
「一緒に帰ろう」
そう言って笑う相手の言葉を、そのまま素直に受け止めた。
この子は、私と一緒に帰りたいのだ。
嬉しいと思った。
それから二人は、どんな時も行動を共にした。
里奈は美鶴に、同じ年の同性という存在を教えてくれた。それは、今まで知らなかった存在だった。里奈が美鶴の女友達のすべてだった。女友達と言えば里奈だった。里奈という存在が、美鶴にとっての同性の友達だった。
里奈が右と言えば、そうなのだろうと従い、左だと言えば、あぁそうなのかと納得した。
疑ったことなど、一度もなかった。
その里奈が、自分を欺いた―――
わからないよ
わからないまま、登校した。
「えぇ? 知らなかったの?」
「ってか、あの澤村くんに彼女がいないワケないじゃん」
「マジ自分が彼女になれるとでも思ってたワケ?」
「告るなんてバッカじゃない」
「あの二人いっつも一緒だったのに、知らなかったんだ」
「でもさ、田代さんはスタイルもいいしテニス部のエースでしょう? 大迫さんはお世辞にも美人とは言えないしねぇ」
「それにテニス部でも補欠」
「一緒にいるってか、大迫さんが勝手にくっついてただけじゃない? 田代さんにしてみればいい迷惑なんだと思うけど」
「大迫さんは友達でもなんでもなかったってことよねぇ。友達だったらちゃんと言うもんねぇ」
「結局のところ、周りの見えないマヌケってことよねぇ」
好奇と軽蔑の視線が、始終美鶴に絡みついた。
欺かれていたのは、自分だけだった。
二人が特に公言していたワケではなかったが、二人の仲は、周知の事実だった。
知らなかったのは、自分だけ。
それに…
なぜだが周囲は、美鶴がフラれた事実も知っている。
どうして?
どうして知ってるの?
どうして言ってくれなかったの? 言ってくれれば、こんな恥をかくこともなかったのに。
どうして? どうして? どうしてっ!
いつも誰かに笑われているような気がして、美鶴は堪らなくなった。
こんな時、いつもなら里奈がそばにいてくれる。なのに今は…
みんなが笑っている。
私と里奈と澤村くんしか知らないはずなのに…
誰が…?
誰が…
―――誰かが?
…………
……里奈も、哂っているのかもしれない。
フッと思いついた考えは、やがて確信に変わっていった。
他の生徒と同じように、里奈も笑っているのかもしれない。
美鶴が澤村にノボせているのを見て、陰で哂って楽しんでいたのかもしれない。
美鶴が澤村にフラれるのを想像して、楽しんでいたのかもしれない。
実際にフラれたのを見て、バカにしているのかもしれない。
澤村だって、目の前で愕然とする美鶴を、内心は面白がっていたのかもしれない。
それだけじゃない。そもそも里奈にとって、美鶴はただの引き立て役だったのかもしれない。
成績もいまいちで部活でも補欠。見た目も平凡で母子家庭の貧乏人。一方の里奈は両親も健在でしかも美鶴の家庭とは比べ物にならないほど裕福。テニス部のエースで異性にも人気が高い。
里奈にとって美鶴は、自分を引き立てるのに恰好の存在だったのだ。
そうなのか?
そうなのだ。
美鶴の中で、何かが弾けるのが聞こえた。
きっと、澤村のことが好きだと言ったときも、心の中では哂っていたのかもしれない。周囲の人間が美鶴を哂っているように……
自分がバカだったのだ。何も疑わずに里奈を親友だと信じて慕っていたから。そう、信じた自分がバカだったのだ。
信じたから、傷ついたのだ。
携帯の電源を切った。ヘタな言い訳など、聞きたくなかった。
スッと、気持ちが楽になるのを感じた。
肩に手が置かれる。もう何年もそうやって、美鶴の肩を叩いてきた掌。
美鶴は振り返った。
その時自分がどんな顔をしていたのか、どんな視線を向けていたのか、美鶴にはわからない。
肩を叩いた里奈は、何も言わずに美鶴を凝視し、やがて手を引っ込めて背を向け、走り去った。
その姿がひどく滑稽で、笑えた。
里奈も、こうやって今まで自分を笑ってきたのだろう。
それが最後―――
テニスでは敵わないので、成績で見返してやろうと思った。
学年上位の里奈は、県下一の進学高校へ進む。だが美鶴は、里奈と同じ高校へは進みたくなかった。だから、隣の県の私立を受けた。
里奈が当初は目指し、だがなぜが進学を拒否した学校。それが、唐渓高校。
中高一貫の私立校。本当は中学受験で進むはずだったと、いつかチラリと聞いた。だがなぜか里奈は美鶴と同じ、平凡な公立中学へ進んだ。高校も行くつもりはないと言っていた。
なぜ里奈が進路を変更したのか、美鶴は知らない。
きっと成績が届かないのだろう。そう思った。
思ったら、どうしても行きたくなった。里奈が行けない学校へ、行ってやろうと思った。
やがて電源を切っていることを母に咎められ、必要ないなら料金が無駄だと言われて解約した。里奈と聡以外に話す相手もいなかったのだ。解約したところで、不自由は感じなかった。
制服はじっとりと濡れて重くまとわりつき、独特の臭いを漂わせている。歩きながら脇下のファスナーを上げるが、途中でひっかかり上まで上がらない。だが、立ち止まると後ろから聡の腕が伸びてくるようで、足を止めることができない。
背中で束ねた髪も重い。乱れた前髪からポタポタと雫が垂れては頬を伝うが、拭おうとは思わなかった。
どれほど歩いたのか?
聡が私のことを好きだなんて……
そんなこと、あるワケがない。だって、私のことを好きになるヤツなんて、いるワケがない。いるなんて、思ってはいけない。信じてはいけない。
信じれば、また裏切られる。
じゃあ、聡の意図は?
……ひょっとしたら、聡も何か関係しているのかも? 覚せい剤になんて縁のないフリをして、実は何か関係しているのかも。ほらっ おとといだって、しきりに携帯を気にして落ち着きがなかったじゃないか。
怒りに満ちた聡の瞳が蘇る。殺されるとすら思えたあの迫力。
本当に、殺されるのかもしれない―――
何の根拠もない。だが美鶴には、聡の言動も山脇の言動も、素直に受け止めることができない。
「秦鏡…… なんてものがあったら、いいのにね」
聡の心を、映してみたい。真意が知りたい―――
真意……
何が真実なのか? 誰が正しくて、誰が敵なのか?
何もわからない。
誰の心も、私にはわからない。だから、信じられない。
信じられないんだ
だって、あんなカッコイイ男の子が二人も私のことを好きだなんて…… そんなこと、あり得るわけがない。
カッコイイ……?
ウソだ。カッコイイだなんて、そんなことない。私は、女の子に囲まれて気を良くするような男など、認めたりはしない。
どこを見るともなしに視線を彷徨わせていた美鶴の耳には、背後の音などまったく届いていない。
背中から腕をまわされ片手で口を塞がれる。驚いて目を見開いた瞬間、首の後ろに衝撃を感じて目の前が白く光った。
そのまま頭が重くなって、立っていることができなくなった。
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